【 会員の随筆 「空の散歩」 】 −NO.9−
          
  
  
〔回数〕 〔掲載日〕 〔 路 線 名 〕  〔  航 路 事 情 〕 〔 訪 問 都 市 〕
第 9 回  2009.7.1 モスクワ経由ヨーロッパ路線 モスクワ → パリ・ロンドン パリ

モスクワ経由ヨーロッパ路線    
 ◎ 航路事情   
 中央ロシア台地にあるモスクワ(北緯55度、東経37度)・シェレメチボ国際空港を正午頃離陸、巡航高度9400メートルを維持しながら進路をほぼ西にとりラトビアの首都リガを経由バルト海に出た後、南西に進路を変える。
 ここで早、ロシア人による航空管制からラトビア人の管制にかわる。ラトビアを含むバルト3国(エストニア、ラトビア、リトアニア)は、過去のナチス時代や冷戦下のスターリン時代、彼らからの迫害と強制移住に苦しめられてやっと自由になった国である。ラトビア女性管制官は持ち前の明るく弾んだ英語で高度を31000フィートに変更するよう指示してきた。
 言外に日本にシンパシーを感じさせるような温もりのある英語に聞こえた。その女性の柔らかい余韻がまだ耳元に残っている頃、その昔バルチック艦隊を温存していたリバウ港が遥か左前方霞の下に見え隠れした。右方にスエーデン領エーランド島が視野から消えるとやがてバルト海を西進、ヨーロッパ大陸の上空ドイツの北辺を掠める頃右方にデンマーク領シェラン島がのぞまれ、コペンハーゲンが微かに島の彼方に見えるようである。
 
「絵画の見方」視覚デザイン研究所
 
 エルベ川を過ぎライン川の上空では、その河畔にハンブルグの大都市がスモッグの下に姿を現す。国境を数分以内で通過するので地図との照合や位置通報は多忙を極めるが幸いレーダーの監視下に入るので通報は省略することもある。ベルギーの首都ブリュッセルを過ぎると直ぐ降下の許可を得て降下を始めないと高度を処理できなくなる。やがてフランスの管制区に入るとフランス人管制官の訛りのつよい英語とフランス語の二カ国語が飛び交う世界に変貌する。 
 
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現在の航空図
 スピードを落とし、フラップを出しどんどんと高度を下げて行くと左前方にブローニュの森が緑に覆われ、右手に青空を背景にエッフェル塔がセーヌ河畔に浮かび上がった。その景観は正にフランス印象派巨匠*「モネ」の風景画の世界である。
ほぼ40数年(1927年)前、「翼よ、あれがパリの灯だ」と叫んだリンドバーグの興奮が筆者の胸にも伝わってきた。
都の南にあるオルリー国際空港に現地時刻の午後二時頃滑り込んだ。
 
 *クロード・モネ  
   フランスの画家 1840年〜1926年 色彩分割の
   技法を用いて自然に及ぼす光の効果を追求し、明色
   を用いた風景画を描き印象派の代表的画家となる。
   その作品「印象・日の出」から印象派の呼称が生ま
   れた。(大辞林) 

印象・日の出
(クロード・モネ)
 
 ◎ 花の都  パリ  

白亜のサクレ・クール聖堂


テルトル広場
 モンマルトルの丘麓にあった定宿「ホテル・フランソワ」は、下町によく似合う旅籠風の小さな館である。表通りより館内の狭い通路を進むと、右手に小さな喫茶室があり、突き当たりは二、三階へ上がる階段と右手に伸びるフロントデスクがあったように思う。デスク内は、2、3人のフランス人スタッフが居て笑顔で迎えてくれた。早速割り当てられた部屋の鍵をうけとり、階段を上がった。
 部屋に入ると大きなダブルベッドが部屋を占領していて、サブソナイトの旅行かばんを開けると足の踏み場もないほどであった。それでもモスクワの広い部屋よりは遥かに魅力的ではあった。しかも18時間ほどの滞在時間しかないことを思うと贅沢は言っておられない。
 それに従業員は親切で、両替業務や劇場のチケットの手配などの客の要望を快く引き受けてくれるのが心強かった。
モスクワで我慢の3、4日を強いられたあとだけに初めて見るパリへの憧れは強かった。翌朝はパリを発ち、不快な監視付の日々が待っているモスクワだと思うと尚更である。
 急いで旅装を解くや日の沈まないうちに近場のモンマルトル周辺を歩いてみることにした。幸いここから見える白亜の教会サクレ・クール聖堂は恰好の目標となりそれをめざして歩きはじめた。社会の習慣にしばられないで芸術などを志して自由気ままに生活するボヘミアン的生活の中心地として評判の高かったモンマルトルは筆者にとっても映画や絵画を通してこの地名に知らず知らず馴染んでいたのかもしれない。そこは八百屋や食べ物屋の並ぶ浅草のような下町の風情を感じさせる街である。
 
ムーラン・ド・ラ・ギャレット
(ルノアール)


ムーラン・ルージュ
 
 モンマルトルの丘へ通じるこの石畳の階段近くは歓楽街が広がっていた。一段づつ登りはじめると左手にスナック・バーのとまり木に腰かけた若いホステスのすらりとした白い足だけが、戸口の影から見えた。やがて階段を登り切ると正面に聖堂が天高くそびえていた。
 左に折れてなお進むとアーチスト達で賑わうテルトル広場に出た。その昔まだ田舎の雰囲気が残っていたこの丘の長屋にピカソやゴッホやルノワールが住んでいた。ルノアールがそこに居を定めたのは彼が好んでいたムーラン・ド・ラ・ギャレットが近かったためと、コルト街にあった美しい庭のある住まいを見つけたためであった。庶民の踊り場であったムーラン・ド・ラ・ギャレットはこの向こうにあり、昔のダンスホールのざわめきが聞こえてくるようである。
 このテルトル広場では、貧乏絵描きの卵が生活の足しに絵を売っていたり、客を前にして似顔絵を描いている画家もいた。
その少し向こうは、「フレンチカンカン」で有名な″赤い風車″(ムーラン・ルージュ)のキャバレーである。昼まであるためその前は人通りが少なく閑散としていた。数奇な生涯を送ったロートレックはドガや浮世絵に影響を受け、風刺性のある独自の画風で踊り子や娼婦、役者等を描いたと言われる。彼もこの丘に住み″赤い風車″の石版ポスターなどもてがけた。


モンマルトル・コルト街の庭
(ルノアール)



(ロートレック)
     

マルシェ
 帰りに買い物客で賑わう市場マルシェに立ち寄りいくばくかの果実を仕入れた。
 因みにパリ発祥の地は、紀元前3世紀セーヌ川に浮かぶシテ島にケルト系のパリシイ人が住み、その後ローマに支配された。
5世紀にローマ人がフランク族(ゲルマン民族の一部)に敗退して以来、(508年)パリがフランス王国の首都となる。キリスト教がパリに浸透し、文化と芸術を生み出す原動力となった。その後15世紀初め、
100年戦争(英国)で祖国の危機にジャンヌダルクが活躍したことは知られている通り、1789年のフランス革命を経てナポレオンの登場となり、近代都市パリの誕生となる。 
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                   山城高4回卒  吉田 和夫

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