【 会員の随筆 「空の散歩」 】 | −NO.8− |
〔回数〕 | 〔掲載日〕 | 〔 路 線 名 〕 | 〔 航 路 事 情 〕 | 〔 訪 問 都 市 〕 |
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第 8 回 | 2009.6.1 | モスクワ経由ヨーロッパ路線 | 東京 → モスクワ | モスクワ |
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モスクワ経由ヨーロッパ路線 |
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◎ 航路事情 |
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東京〜モスクワ モスクワを経由出来なかった1970年以前のヨーロッパ路線は、北回りコペンハーゲン経由ロンドンへは(DC−8ジェット機)14725キロ、22時間40分、南回りテヘラン経由では12487キロ、29時間25分(寄港空港が多いため)これらにくらべモスクワ経由ロンドンは10683キロ、14時間35分、そのうち東京モスクワは8015キロ、9時間55分と大幅に短縮でき、時間的、経済的効果は計り知れないほど大きいものがあった。 |
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従ってモスクワ経由は時間短縮の点でこの地域を飛ぶエアラインにとっては垂涎の的であった。 ソ連国営航空のエアロフロートとN航空の共同運航(1969年11月)を経験してやっと1970年3月、自主運行が可能になった。 その最初のパリー便に1925年(大正15年)7月、シベリア大陸を横断しモスクワを経由して欧州を訪問した亜欧シベリア大陸横断飛行(ブレーゲー19型)に成功した初老の安辺浩元機長の姿があった。ファースト・クラスの椅子に深く腰を落とし、感慨深く往時の飛行を思い出しているふうであった。 |
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航路上の天候は一般的に雲が少なく安定しており、偏西風帯から離れていてさしたる向かい風をうけずに済む。しかしモスクワ空港は冬季霧が発生し、着陸不可能の悪天候に見舞われることがあり、代替空港サンクト・ペテルブルグ(旧レーニン・グラード)への飛行を早めに決断しないと燃料切れの恐れもでてくる。 それに定められた航路からの逸脱は一切許されず、少しでも外れると瞬時にコースに戻るよう指示され、地上レーダーの厳しい監視下で飛行することになる。 機上では*ドップラーレーダーを活用(ドップラー航法)し位置を知るが正確な位置は地上レーダーに劣る |
![]() 日本海を北上し、沿海州エデインカ(南樺太真岡西方)をヒットした後針路を北北西にとる。ソ連圏内では高度はメートル、気圧はミリバールと単位が変わり欧米圏のフィート、インチが使えない。 従ってこの路線を飛ぶ航空機には二種類の高度計が装備された。またロシア人の英語による航空管制は訛はあるがわかりやすいのが何よりであった。途中アムール川を越え、ハバロスク北方500キロアムール州エキムチャンで針路をほぼ西北西にとることになる。 その後バイカル湖の北450キロ、ビテイムを更に西進する。やがて午後のにぶい陽光に映えるレナ川(北極海に注ぐ)を越えた後、ほぼ1時間毎にエニセイ川、オビ川の両大河を横切って行く。 |
エニセイ川あたりまでは中央シベリア台地の丘陵地帯が広がるが、その後ウラル山脈を超えモスクワ東部にさしかかると一面タイガ(針葉樹林)地域が広がり、ところどころに小さな集落が見える。太陽は沈まず、いつまでも天の中点に居つづける。 * ドップラー航法 移動体の速度に比例して受信周波数が変化する という、ドップラー原理を利用した航法。 |
![]() 高さ206mのウクライナホテル |
◎ ペレストロイカ(改革)以前の 首都モスクワ |
![]() 赤の広場 ![]() クレムリン廟 |
冬季酷寒のモスクワ経由ヨーロッパ路線が開設された1970年代、未だ共産主義が幅をきかせていた頃、母なるモスクワ川に面したウクライナ・ホテルは外国人専用ホテルとしてその偉容を誇っていた。 しかし、シュレメチボ空港では国境警備員の尊大な態度や税関係官の節度を越えた検査などに時間をとられ一般旅客をはじめ筆者を不愉快な思いにさせた。これから先のモスクワでの滞在を暗示しているようであった。 だだっ広い玄関ホールの隅に設けた簡素なカウンターの中の女性は新人なのか部屋の割り振りに時間を費やし鍵を受け取るまで何分も待たされた。 肩と肩が触れ合うほどに混み合うエレベーターに乗ると操作を担当する若い女性が丸椅子に座って急発進、急停止を繰り返すのでその都度ギシギシときしんだ。突然エレベーター内のスピーカーからのぶといロシア語が流れるとその都度彼女はマイクを通して返しているように見える。二人の位置関係が今ひとつ判然としない。東京からの長時間の飛行(約11時間)で疲れている旅客や筆者の神経をこの声が逆撫でさせるように周囲に気を配る気配は生憎持ち合わせていない。 共産国ソ連の後進国振りを見事に露している。 モスクワの語源は諸説あって不明、13世紀末にモスクワ大公国、15世紀に全ロシアの統一、一時ペテルブルグ(レーニン・グラード)に遷都したが 革命後の1918年再び首都になり現在に至る。人口は今や900万人に達している。 |
或る日、赤の広場へ散策に出かけた。クレムリン廟の前で一糸乱れぬ衛兵の隊列を見たが筆者の手続きのミスでレーニンの遺体を見ることはできなかった。その頃はまだクレムリン内部は未公開であった。 この赤の広場は元々商売、取引の広場と呼ばれ、美しい広場という意味もありここはモスクワの文化生活の中心地であったとか。帰りにグム百貨店に立ち寄ったが写真にあるように吹き抜けの天井に光取りの天蓋を覆った3階建の豪奢のものであるが、元は缶工場であったものを革命後(1927年)に百貨店にしたものである。数少ない商品に購買欲をそそるものは何一つ陳列してなく売り子も所在なく退屈している風であった。 その近くにあるボリショイ劇場へは退屈しのぎによく通ったものである。 8本の円柱と彫刻、天井に大きなシャンデリアが目をひく。230年の歴史を重ねるロシアが世界に誇るバレー、オペラ劇場。かってロシアの貴顕紳士淑女が観劇に興じたところ。 火災で消失したとはいえ、140年の歳月を経ているとは思えないほど手入れが行き届いているように見えた。そこで演じられる古典バレーは華麗典雅で筆者を夢の世界へ誘った。 一方ホテル室内は冬季になると建物の老朽化のせいか二重窓から隙間風が侵入し、夜間室温は一段と下がる。それに前宿者の人型がそのまま残っているかたい寝床にできるだけ厚着してもぐり込まないと、深夜寒さで目覚めることが多い。やっと寝ついても突然けたたましい電話の呼び出し音で起こされた。受話器をとると一方的に早口なロシア語でまくしたてられた後、プツンと切れる。外出の有無を確かめる諜報活動の仕業か不愉快極まりない。 |
![]() グム百貨店 ![]() ボリショイ劇場 |
![]() ボリショイ劇場内部 ![]() |
朝食は各階のビュッフェでとり、毎回簡素なソーセージと乾燥千切り大根の煮たものに黒パン二きれが定番のそれ以外にメニューはない。 3、4日滞在した後の出発日にやっと部屋を出られると思ったとき、突然老婆のメイドがやって来て洗面所に入るや元々使い古して紙のようにうすくなっていた木綿の手拭きを見つけ、指先でここが少し破けていると筆者の目元に突き出し弁償しろと要求してきた。理不尽な請求とは思ったが、上司から何時も言われているのだろう、幾ばくかのルーブルを手渡すと「スパーシーボ」(有り難う)と胸を張って部屋から出て行った。 この頃からソ連経済は客に弁償させるほど逼迫していたのかもしれない。 しかし、1991年ソ連邦が消滅した後現在(2007年)は外資系の豪華なホテルが乱立、食事や買い物などは先進国並みのサービスを提供しているという。 河川千年を誇るモスクワ川を行き来す |
参考文献「ロシアを読み解く」によるとロシア民衆は、欲求不満の捌け口としてロシア連邦に於ける大国主義や帝国への回帰に関心を示しはじめた。ロシア人の意識は領土と国家である。土地への執着は血よりも強いという。 火事場泥棒的に不法占拠した北方四島返還を日本が60年間要求し続けても尚解決をみないのは彼らの土地への執着が如何に強いものかを物語っている。 |
![]() マトリヨーシカ (ロシアンドール) |
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![]() 山城高4回卒 吉田 和夫 |
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