【 会員の随筆 「空の散歩」 】 −NO.7−
          
  
  
〔回数〕 〔掲載日〕 〔 路 線 名 〕  〔  航 路 事 情 〕 〔 訪 問 都 市 〕
第 7 回  2009.5.1 南周りヨーロッパ路線 カイロ ←→ ローマ ローマ

南周りヨーロッパ路線    
◎ 航路事情   

DC-8ジェット機
 
 (東京) カイロ〜ローマ

1970年代、筆者の操縦するDC−8ジェット機はホンコン(中国)、バンコク(タイ)(2泊)、ニューデリー(インド)、テヘラン(イラン)(3泊)、カイロ(エジプト)を経由してローマ市街の西辺テルニア海に面したフミチーノ(レオナルド・ダ・ビンチ国際空港)空港へ早朝着陸した。
 空港税関で、パーサー(客室乗務員)が1カートン(10箱詰め)の米国製タバコを早朝の御苦労様代がわりにそっと係官に贈ると、簡単な検査で通関できた。深夜、テヘランを離陸し途中カイロ空港へ寄港した後の徹夜飛行で、疲れきった乗員の表情を素早く察知してのことであろう。
 空港から都心へのびる一直線の街道沿いを走ると、車窓から帯のように連なる唐笠松の緑が、早朝の穏やかな陽光を浴びて輝いているのが目にはいった。東京から6日間を要した日程の最終地ローマに無事着陸できた達成感と共に深夜連続飛行の緊張からの開放感が、喜びとなって心のなかに夏雲のように広がった。
30分ほどでテルミニ(ローマ終着駅)に近い定宿、ホテル・メトロポールに着いた。ホテルチェックアウトは翌日午後1時なので散策の時間はたっぷりある。
 今夕7時頃、会食を希望する人はロビーに集合するよう皆に伝えて散会した。
     
           





     
 ローマ〜カイロ

 藍緑を一刷きしたような空の下、ローマ・レオナルド・ダ・ビンチ国際空港を通常正午頃、滑走路25(西の方向へ)から離陸、オスティアの古代遺跡を真下に見て、眼前の渺茫たる銀青色のテイレニア海上空を左旋回しながら上昇し、再びイタリア半島に向かう。半島を横切り更に上昇、エーゲ海に浮かぶクレタ島を目指す。
その後往路と同様ロードス島を経由して地中海を南下してカイロに至る。(上図参照)
 70年4月の或る日、クレタ島上空で紀元前2000年に栄えたクレタ文明のソノックス宮殿や多彩な陶器類に思いを巡らす暇もなくカイロ空港の気象情報が気掛かりになってきた。
砂漠空港は予期せぬ砂塵に見舞われることがあり、一寸先も見えなくなることもある。決して気が抜けない。早速気象情報をとり進入方式を決定(空港を周回して南から北に向かって着陸する有視界方式)、やがて降下を始めた。しばらくするとエジプト北端ナイル川河口にアレキサンドリアの市街(クレオパトラの遺跡があるので有名)が夕日に輝き、その彼方に巨大なピラミッドが薄靄の下に姿を見せた。
 一般に砂漠の上の目視進入降下は適正な高度の判定を見誤り易い。特に霧がかかると進入経路が低くなりがちで高度計から目が離せない。着陸後スポット・インして乗客が降り、ホッとする間もなく、突如砂塵が舞い、文字通り一寸先が見えない状態になった。まさに間一髪のところで難を逃れたのを覚えている。





ローマ名物、唐笠松
 ◎ ロマンの都 
         ローマ
 

フォロ・ロマーノ


シーザー
 
〔フォロ・ロマーノ〕

 今回はローマを訪れた観光客が一度は行く「フォロ・ロマーノ」と「コロッセオ」を散策することにした。空は果てし無く青く目も眩むような午後の日差しが照りつけるフォロ・ロマーノは凹地に折れた石柱が雑然と散らばり、狐狸の住み家と思わせるほど荒れ果てているように見えた。しかし此処は古代ローマ時代に市民の集会(フォロはフォーラムが語源)や政治討論の場として設けられた公共広場で、その他に裁判や商業活動の拠点でもあったという。
 筆者は、ほぼ20数年前、高等学校の世界史の授業の中で*ガリア戦記(シーザー著)の一部を紹介してくれた先生の
「来た。見た。勝った。」と一語づつ間をおいて生徒を引きつけ、その有名な言葉を残したシーザーについて熱く語った相貌を思い浮かべていた。
 *ガリア戦記 
  ローマ時代、ピレネー山脈とライン川の間のケルト人居住地域をガリアと
  呼んだが、その地を攻めたシ−ザーのガリア遠征の経過を記した著作。
  簡潔で的確な文体はラテン文の範とされる。
     

 筆者は復元図を前にしてシーザーの養子アウグストウス(初代オクタビアヌス皇帝、前27年)が養父を記念して建てたジュリアス・シーザー神殿の跡をこの目で確認した。シーザーの遺体を火葬にした円形の祭壇の中心部がそれであるといわれている。そしてその左横に彼が死の直前、信じきっていた部下のブルートウス(シーザーの野心を疑った暗殺の首謀者)に「ブルートウス、お前もか」の言葉を残して死んでいったあの惨劇のあった元老院の遺跡が今は悲しく雑草の中に埋もれているのを目の当たりにして、遠く過ぎ去った2000年前の情景が身近に感じられ、死に瀕したシーザーが蘇ってくるようだった。

アウグストウス


シーザー神殿跡地


神殿 復元図

 雑草の中に埋もれた元老院

元老院復元図
     

コロッセオ



暴君ネロの巨像
 〔コロッセオ〕

   「コロッセオが在るかぎり、ローマも存在するだろう。
   コロッセオが崩れるとき、ローマも終わりとなろう。
   ローマが終わるときは、世界の終りだ」と言った言葉がある。

そのコロッセオはフォロ・ロマーノの直ぐ近くにある。

 4階建て57メートルの外観は文字通り巨大で名の由来はここに暴君ネロ(母と皇后を殺し、またローマ市の大火に際してはその罪をキリスト教徒に負わせて迫害、後反乱起こり自殺、……広辞苑)の巨象(コロッソ)があったからとも言われている。
 政治、社会の諸問題から庶民の目をそらせることが目的で、剣闘士や猛獣の殺し合いなど見せ物を提供していたという。
内部に足を踏み入れると、身分、性別によって仕切られたという観客席があり、地下には猛獣の檻や人物移動のための舞台装置もあったとか。表面を飾っていた大理石などは恰好な建築資材となり持ち去られたという。
いずれにしても優に5万人の観客を収容できたコロッセオはローマ帝国のシンボルの一つであろう。
 
     
 古代ローマ帝国滅亡後、ゴート族ロンゴバルド族、アラブ人、ノルマン人、ドイツ人、フランス人、スペイン人がイタリアに侵入してきてイタリア民族と融合した。
 文献によると帝国滅亡の原因は30万人に及ぶローマ軍の兵士に支給する給料が膨らみ軍事費が帝国の財政を圧迫したことが直接の原因と言われている。25年の兵役義務を逃れるため脱走が絶えることがなく、兵士を引き留めるため皇帝は給料を引き上げ特別ボーナスまで支給した。そのため粗悪な銀貨が大量に発行されて大インフレが起こり、ローマ貨幣の信用は地に落ちた。
 財政縮小に立ち上がった皇帝ハドリアヌスをはじめそれに続く皇帝達は財政の立て直しを図ろうとしたが贅沢に慣れた市民の猛烈な反対に会い実現できなかった。
 その後ローマ帝国の財政は遂に破綻し、兵士達の給与も滞るようになった。不満が爆発した兵士達は各地で次々と蜂起、帝国は内乱状態に陥り、混乱に乗じて前述の異民族が侵入するようになってきた。西暦395年、ローマ帝国は東と西に分裂やがて終焉を迎えた。一度獲得した特権や恩恵を手放すことをしなかったローマ帝国市民にその原因がみられる。もし、そうだとすれば我が日本も他山の石としなければならないだろう。

コロッセオ内部


コロッセオ内部復元図
     


2000枚のローマ銀貨
 

 帰りにテルミニ周辺のナツイオナーレ通りを歩いていると*ジプシー母娘が筆者に近づき5、6歳の娘に物乞いするように目で命じていた。娘は、垢の浮き出した小さな掌を筆者の目の前にそっと差し出した。その直後彼らの動静を伺っていた真向かいの商店の老マスターが店から飛び出し彼らを手で追い払った。一瞬の出来事であったが薄汚れた衣服を纏って街中を浪々する哀れな母娘に惻隠の気持ちを禁じえなかった。
  *ジプシーはインド西北部が発祥の地といわれ、6〜7世紀から移動し始め
   て今日ではヨーロッパ諸国、西アジア、北アフリカ、アメリカに広く分布する
   民族で、移動生活を続ける。ジプシーは手工芸品製作、音楽などの独特な
   伝統を維持しているという。
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                   山城高4回卒  吉田 和夫

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