【 会員の随筆 「空の散歩」 】 | −NO.5− |
〔回数〕 | 〔掲載日〕 | 〔 路 線 名 〕 | 〔 航 路 事 情 〕 | 〔 訪 問 都 市 〕 |
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第 5 回 | 2009.3.1 | 太平洋航路 | ウエーキ → ホノルル | ホノルル |
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◆太平洋航路![]() |
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◎ 航路事情 |
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![]() 太平洋航路 |
1950年代後半にDC6Bの改良機種であるDC7Cが最後のピストン機として華々しく登場した。2500馬力の6Bにたいし7Cは3400馬力と一回り大きくして航続距離を伸ばし、ホノルルまで直行可能にした。しかしその分エンジン回りの機構が複雑となり、洋上でエンジンがよく故障するのが泣きどころであった。 それでもホノルルへ直行できることは乗客にとっては大きな魅力であり、客室は常時乗客であふれていた。 羽田を夕方離陸して翌朝10時ごろホノルルに着陸したが、搭乗員にとっては11時間を遥かに超える飛行時間であり、それは気力、体力の限界に近かった。 飛行技術的には追い風(ジェット気流)を最大限利用するタイム・フロント方式が航法技術者と気象予報者の研究の成果として開発された。 詰まり最短距離上を飛ぶコースを選ぶのではなく、距離を多少犠牲にしても追い風成分を有効利用して遠回りでも飛行時間が短縮できる航路を選ぶ方式である。 それには高層の気圧配置の予想が適正であることが必要であった。 初期の頃は手書きでタイム・フロントを試行錯誤して航空図上に描いた。従って飛行航路はその日毎に変わったものである。 |
◎ ホノルル |
徹夜作業の疲れで車中居眠りすることがよくあった。あるときは甘美なパイナップルの香りで目覚めてここがハワイであることを実感させてくれた。 元々ハワイ諸島は、200年程前(1778年)イギリス探検家ジェームズ・クックが発見したが、1810年カメハメハ大王がハワイ全島を統一した。ホノルルはハワイ王朝の首都であり、ワイキキを王朝一族が避暑地としていた。150年ほど前(1821年)、宣教師の保護や水や食料補給の目的で米軍艦がしばしばホノルル港に投錨した。その後白人達が土地を入手して砂糖キビ耕地を広げ、その労働者を確保するため日本や中国から移民を募集したのが、「ハワイ移民」の歴史の始まりである。 1892年(明治25年)ハワイ共和国初代大統領らによるクーデターでリリオカラニ女王が王位から追われ、6年後ハワイは米国の準州に、1959年8月、合衆国50番目の州として認められたという経緯がある。 総人口126万人のうち90万人がこのオアフ島に住み、ホノルル、ワイキキには40万人弱が集中しているとか。1930年頃までは「水が湧き出る」と言うハワイ語の「ワイキキ」は、現在高層のホテル群が立ち並ぶ地域であるが、その昔この一帯は湿地帯でタロ芋畑や椰子の林であった。その後アラワイ運河掘削時に出た土砂で湿地帯を覆ったと言われる。戦時中(1941〜1945年)は全島軍事基地と言ってもよく、基地収入が観光収入を遥かに上回った。しかし今や観光事業が花形産業であり、世界中から人々を呼び込んでいる。 |
![]() ハワイ諸島 ![]() タロ芋畑 |
![]() 椰子の木 |
日本にハワイ事情を紹介したのは1804年、若宮丸の漂流者が口述した「環海異聞」という見聞記が最初であり、翌年稲若丸の漂流者も「夷蛮漂流帰国録」を残している。これらは気候、風土や島民の風俗、生活様式などについて、見聞した模様をいずれも口述したものである。 1860年咸臨丸艦長勝燐太郎は、サンフランシスコから帰途ホノルルに立ち寄り、その時の印象を「海軍歴史」の中でこう語っている。「王名はカメハメハ土人種なれども状貌雄偉にして厳然国王の儀容具われり。式終えて懇話あり、また言わるるよう明年は、予日本皇帝を訪問し、貴国に到るべし‥‥‥」と。しかし実現しなかった。 ハワイへ渡航した最初の日本人は明治元年から同18年までの350人であるが、彼らを「元年者」と呼び、先輩として羽振りをきかせていたという。その後29000人の出稼ぎ移民がハワイ諸島に住み着いた。 |
数年後の或る日、日米戦争の火蓋をきった真珠湾(ワイキキの西方)へ出掛けてみた。そこには日本海軍の攻撃により1100人を超える乗員と共に、海中に没した戦艦アリゾナ号が沈没しており、それから20年余を経過したその頃でも、海底から泡立ち、未だ流出をつづけている黒い重油を目の当たりにした後、アリゾナ記念館内を覗いてみた。その一角に磨き抜かれて光沢を放つ石碑の前で碑面に深く刻まれた1100名の米国将兵の名を喰い入るように見つめていた一人のアメリカ人の眼に悲痛な光が浮かんでいた。 戦争のもたらす悲劇の傷痕の深さをそのときほど思いしらされたことはなかった。 |
![]() オアフ島 |
![]() 椰子の浜辺 |
かって沖縄ハワイ移民一世は、娘がホノルルで日本海軍の投下した弾で被弾し、絶命したわが子の悲しみを湿りがちな言葉で話したあと、次のように語ったことがある。 「アメリカは立派なキリスト教国だがの、戦争のやりかたが悪い。なぜなれば沖縄でのやりかたは、飛行機からガソリンや石油を落として、みな焦土、殲滅。もう島の先の方から焼いてそれから上陸してくるから人間も家もみな焼いてから‥‥。それは本当の戦争ではない。本当の戦争いうたら、日清、日露の戦争のように、陸軍、海軍、飛行機で勝負をわけるのが当たり前だ。広島、長崎で何十万という非戦闘員に爆弾を落として殺すというのは、これはアメリカのやり方が悪いと、わし、外人とだれとでも話す時に言いますよ。」(沖縄ハワイ移民一世の記録より) こう言い切る老人の言葉は戦争の不条理を私たちに訴えかけてくる。 帰途、青インクを流したようなライトブルーの空の下で、何事もなかったように亭々と天を突く椰子の木を見ながら、平和の常夏の国ハワイにいることが不思議でさえあった。 |
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![]() 山城高4回卒 吉田 和夫 |
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