【 会員の随筆 「空の散歩」 】 | −NO.1− |
インターナショナル・エアライン・パイロットのいわゆる5つの魅力の一つは、遠い世界に何度も直接触れることができた喜びと共に、その頃の記憶が絵のような鮮やかさで蘇ってくることである。飛んだ路線の航路事情とさまざまの国の生活文化や風俗習慣などを、その折々に見たまま感じたままを記録し、帰国後参考文献などで補足してみた。 読者諸氏も筆者と共に旅するつもりで楽しんでもらえれば、この稿をおこした意義は無駄ではなかったことになる。 元・日本航空(株)機長 山城高4回卒 吉田 和夫 |
〔回数〕 | 〔掲載日〕 | 〔 路 線 名 〕 | 〔 航 路 事 情 〕 | 〔 訪 問 都 市 〕 |
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第 1 回 | 2008.12.1 | 東南アジア路線 | 東京→高雄(台湾)→香港 | ホンコン |
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◆東南アジア路線![]() 味覚の街、ホンコン |
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◎ 航路事情 |
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![]() 東南アジア路線 |
東京〜高雄〔台湾〕〜ホンコンを結ぶこの路線は夏秋の台風と冬の晴天乱流に悩まされた。台風による擾乱(ジョウラン)を避けるためコースを変更したり、台風の目の上を飛んだりした。そこは意外に静穏であった。しかし突然襲う晴天乱流は冬季高層等圧線の配置の影響でジェット気流が収斂(シュウレン)する鹿児島方面上空で不思議によく発生した。 1〜3月のホンコンはこの地域特有の悪天候(一名 クラチン)により全天低い雲に覆われ,視界不良のため着陸ができないことがよくあった。昔のホンコン・カイタック国際空港は九龍地区にあって周辺が山岳や丘陵に囲まれていたため離着陸に一定の経験や高度な技量が要求された。そのため2、3日当地に滞在して複雑な地形を覚えたり、何度も離着陸の訓練をした。また操縦席前面の窓を遮蔽して計器のみによる緊急脱出操作(エマージェンシー・プルアップ)を何度も繰り返した。それは正に手に汗が滲むほどの猛訓練であった。この種の訓練を「ホンコン・ローカル」と呼んだ。 |
◎ ホンコンの街 |
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第1次、2次のアヘン戦争で中国への野心を剥(ム)き出しにした英国は、1860年敗れた中国と北京条約を結んで九龍地区とストンカッター島を手に入れた。更に1898年、防衛上の不安を名目に235のホンコン島を含む周辺諸島を99年間の期限付きで租借した。その後、1941年太平洋戦争勃発と同時に日本軍がホンコンに侵攻、12月25日に占領した。この時から敗戦までの3年8か月の占領期間を除いて再びホンコンは英国の支配下に服した。 一時60万人まで激減した人口は、1949年中華民国共和国が成立すると大量の難民が中国内陸からホンコンに流入し、人口は230万人を超える勢いまで激増した。更に1970年以降中国やベトナムから毎年不法入国があり、今(2007年)や総人口は590万人までに膨(フク)れ上がっている。 しかし、話は前後するが筆者がホンコンへ飛び始めた1958年の頃は街の中心であるネインド道を歩いても日本人観光客を殆ど見かけることはなく、土地っ子も比較的に少なかったようである。 |
![]() DC6Bプロペラ機 |
羽田23時59分発のホンコン便(DC6Bプロペラ機)は8時間30分の飛行後、翌朝8時半頃ストンカッター島上空を通過してホンコン国際空港に着陸した。地上係員に飛行経過を報告したあとホテルへ行く途上、空港周辺の一郭に目を覆いたくなるような暗灰色のスラム街が往来に面して広がっているのが目に入った。地元っ子はそれを九龍城と呼んでいた。 |
所謂、無頼(ブライ)の徒の巣窟(ソウクツ)で一般人が路地に迷い込むと生命の保証はないというほどの無法地帯であったという。その前を過ぎるとやがて街路の両側に瀟洒(ショウシャ)なホテルや店舗が並ぶ九龍地区の中心街にでる。徹夜飛行の疲れを九龍公園傍のホテルでとった後、誰言うとなく夕方5時ごろに近くの九龍飯店に集まり、機長を中心に同乗クルー(副操縦士、航空士、航空機関士、客室乗務員)一堂がひとつのテーブルを囲んだものである。各人は無事飛行を終えた達成感に口元がゆるみ、ラオチュウの美酒にほんのり酔ううちに談論風発、時の過ぎ行くのを忘れさせるほど楽しいひとときを過ごした。 | ![]() 着物・うちわサービス |
![]() 中華料理 |
ある時筆者の真向かいの席から、「今日の機長の名は「紙」、皆様のお供をするスチュワデスは「山羊(ヤギ)」と申します。」なんてアナウンスしたらお客様はドットお笑いになり、きっとうけるでしょうね」とぽっと頬を染めた目元の涼しい「八木」という姓の女性がうつむきかげんに言った。しかし「紙」という機長はいなかったように思う。今でこそ中華料理店は何処にでもあり、一般化しているが、この飯店の提供した料理とサービスは一酔千愁を解く趣があった。。 |
時間に少し余裕がある時はチムシャツイ波止場まで歩き、対岸のホンコン島のチュンワンまでスターフェリーによく乗った。船は二層式で上層が一等、下層が二等席で乗下船ゲートはそれぞれ違っていた。一般に上層は外国人観光客、下層はホンコンっ子が殆んどである。デッキに立つと爽やかな潮風が頬を撫でるのが心地よい。現在は海底に地下道と地下鉄が走っており、便利にはなっているが、情趣に富むスターフェリーは今なお健在である。 | ![]() スターフェリー |
![]() チムシャツイ |
筆者に苦い経験がある。ある日、日中、デパート前を歩いていると、目の前に突然若い二人の男が立ちはだかり、ひるんだ隙に一人の男が筆者のズボンのポケットから財布を掏(ス)るや後方の男に手渡した。三人組は脱兎のような勢いで人込みをかき分け一目散に逃げていった。7〜80年代のホンコンは失業者らしい若者が街のあちこちにたむろしていて、人の意表をついた巧妙なスリ集団が跋扈(バッコ)していたらしい 。 |
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![]() 山城高4回卒 吉田 和夫 |
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