京三中・山城高百年誌…年表史話



三中・山城高百年の間の『いい話』

 明治四十年(一九〇七年)京都市上京区の山中油店を黒紋付、袴姿の二人の府会議員が訪れた。
三中の建設をすすめていたが、敷地が不足だったので隣接する山中油店の所有地を売ってもらいたいと申し入れるためだった。
山中油店主の山中平吾があらわれたが、京華新報はその時の山中平吾を…垢の付いた着物に細い帯、風采の上がらぬ老人…と書いている。
山中平吾はフムフムと黙ってきいていたが、「真につまらぬ私らの土地が公共のためになりますれば、この上もない幸福でございます」とポンと花園村(当時)の土地三千坪の無償提供を申し入れた。
 昔の金持ちは真に大らかだった。
 因みに山中平三(三中三十三回生)は山中平吾の孫である。

  山中油店のホームページ


五中開校の経緯

 明治三十二年中学校令、中学校編成及び設備規則の改正が行われた。この改正が本校に制度上の多大の影響を与えた。その一つが第二中学校の設置であった。規則の第一条「一学校ノ生徒ハ八百人トス。一分校の生徒ハ三百人以下トス。」と定められたことである。
これによって、第二中学校(現鳥羽高校)の建設が府令で決定された。校長には、第一中学校の首席教諭が任命された。
明治四十一年分校を廃止した。それは府立第五中学校の創設の措置であった。初代校長には、分校主任をつとめていた中野省吾が就任した。
          「京一中・洛北高百年史」より


ある時期の三中制服

 三中の制服は海軍式で、丈の短い五つボタン。冬は濃紺、夏は白。ゲートルも靴にぐるぐる巻き付けるものではなく、幅広の布製のものをホックで止める方式。ズボンのポケットはおしりの二つだけで横ポケットはなかった。これは中野校長が発案したもので、横ポケットに手を入れると姿勢が悪くなるというのがその理由。女学生によくもてたとかで、この服にあこがれて入学した人も。
        「読売新聞『旧制中学の系譜』」より


学校行事 《ウサギ狩りは人気行事》

 三中ではクラブ活動とは別に学校行事も盛んだった。創立当時から始まった贄(にえ)崎海岸(津市)での夏季水泳訓練がまだ続いていたし、冬には全校あげてのウサギ狩りも開かれた。ウサギ狩りはとくに三中生の人気を集めたようで、この思い出を語る人は多い。
 ……狩りは鳴滝や松ヶ崎、岩倉などで行われ、山の頂上あたりに網を張って上級生が待ち、下級生が山すそから喚声をあげながらウサギを追った。「とれるのはせいぜい二、三匹だった」……
        「読売�新聞『旧制中学の系譜』」より


新制高校として出発

 《開校式で全校の「和」強調》
 十月十五日の山城高校開校式で佐竹大鑑校長は、「私たちは、きのうまでお互いに知らなかった者同志です。しかし、今日からは、友として、勉学にスポーツに、学園生活に、互いに意義を見いだしてがんばりましょう。
 山城高校は三中の輝かしい伝統を引き継いで発足しました。三中の伝統を基礎にして、新しい校風樹立に努力しようではありませんか。ただいまから新しい山城の歴史が始まるのです。開拓者の意気で、協力と責任の意義をわきまえ、ことを成すにはまず『和』をもってあたるようにしましょう」と全校の和を強調した。
        「昭和五十六年一月夕刊京都」より


青年の像

 青年は高い知性と深い友情とを持たねばならぬ。内省にもとづく勇気とすこやかな心身とをもって前進しよう。
第十五回卒業を記念して山崎正義氏作のこの像を母校に贈る 
  昭和三十八年三月一日第十五回卒業生一同
           「青年の像」碑文より。

 
           


聴覚障害教育について

 昭和四十年代小・中学校で聴覚障害をもつ児童・生徒の受け入れが始まり、聴覚に障害をもつ児童・生徒は、一般の小・中学校で教育をうけることができるようになりました。
 「高校にも難聴学級を」という請願が府議会・府教育委員会で採択され、昭和四十六年山城高校に聴覚障害生徒をうけいれることが決定されました。
 山城高校では全日制・定時制の各課程に専任�教諭�を配置し、初年度全日制二名、定時制六名の生徒を受け入れました。
 一般の高校で制度的に聴覚障害生徒を受け入れたのは全国で初めてでした。


校庭地下に眠る平安初期の寝殿造り遺跡(歴史部生徒が調査)

 当時の新聞は「邸宅の主はダレ? 山城高生が大研究」の見出しで、「遺跡は昭和五十四、五十五年の発掘調査でみつかり、平安京造営時の貴族の邸宅と判明。内裏を模した配置の貴重な寝殿造りで、遺跡に興味をもったメンバーが顧問教諭の指導で邸宅の主探しに乗り出した。」と大きく報道されました。
 遺跡は京都府指定の史跡第一号に指定され「平安京右京一条三坊九町遺跡」と呼ばれています。
 歴史部生徒は調査を「校庭に平安の夢を見た」と題する冊子にまとめました。

                  

  復元図
    (京都府埋蔵文化財調査研究センター所蔵)      


紅燃碑

 紅燃碑記念行事に向けて、在校生へのメッセージ(抜粋)俳優田村高廣さん(三中三十七回卒)
 嘗て太平洋戦争中、吾々は勉学さえも思うに任せず、人命を奪う道具作りに専念。これこそ吾等が本分と、若い血を燃やし続けておりました。その結果十三名もの学友が尊い若い命を失う事になってしまいました。
 併し、この碑銘は単に亡き友を偲ぶためだけのものではありません。これは吾々の悔恨をこめた皆さんへの切なる願望であります。
 如何なる立場に在る者も、国の内外、彼我の別なく、人命を第一に考えて、夫々の人生を歩んで�いって貰いたいものです。
 尊い生命を護るために、皆さんの紅の血を鮮烈に燃やし続けてほしいのです。

               

  紅燃碑除幕式に集まった3学年の同窓生
    
    


校門・本館風景

 創立九十年を記念し、ここに開校当初の正門と、本館と、昭和�十五�年頃と同じ校門・本館風景を昔を忘れないために、銘板として建てる
 
            平成九年五月二十五日
              京三中・山城高同窓会

          
 
          拡大画像
    
 


閉校記念式典

 本校は、昭和十一年三月創立され、以来六十四年の長きにわたり勤労学徒の学び舎として明かりを灯し続けてまいりました。
 この間、おおらかで闊達な校風を築き、四千名にも及ぶ有為の人材を輩出してまいりました。数々の業績を重ねてきましたが、今、勤労青少年の教育という重要な使命を終え、輝かしい歴史の幕を閉じることになりました。本校に学ばれた同窓生各位の母校に対する限りない愛情の念を思うとき、感慨ひとしおのものがあります。
        「記念式典藤井校長挨拶」より


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