【 会員便り 第7回 】
          
 今回は山城高校第12回卒業の西堀孝三郎さんに登場願いました。
西堀さんは在学中、 柔道部で活躍されました。

    

〔掲載順〕 〔掲載日〕 〔卒業年〕 〔卒業回数〕   〔 氏 名 〕       〔タ イ ト ル 〕
第 7 回 2009.1.1 S35年 山城高12回  西堀孝三郎      あ の 頃

 


















あ の 頃  


西堀孝三郎氏 

 昭和33年頃、ようやく終戦から世の中が落ち着いてきた頃で、全ての分野で
生産が始まり、街に活気が出てきた。そんな時代でありました。ラジオから歌謡曲が流れ、街の喫茶店に入ればロカビリーやマンボが流行り、ポマードたっぷりのリージェントとマンボズボンが格好良かった。
 そんな時代、当時、山城高校は未だ古びた木造2階建と、人が居なければ廃家とおぼしきコンクリート作りの3階建の校舎でした。
 学校の北西に当時、兵器庫と呼ばれていた納屋が有って、体操器具とか、いろいろな器具類、ガラクタが入っていた中に柔道場が作ってありました。せいぜい20畳から30畳位、畳の中から藁が食み出している様な粗末な道場だったと記憶しています。建物の窓は鉄格子、中は道場が土間から50cm程度上っており、投げられて落ちたら大怪我が保障されている様なそんな道場でした。
 ようそんなところで柔道やっていたなと思われるでしょうが、入学前そっと鉄格子の外から練習を覗きに行ったら、なんとその牢座敷の中で気合の入った大声が飛び交い、汗まで外へ飛び出してくる練習風景に圧倒されたのを憶えています。
入学と同時に、自ら入部したのか、引っ張り込まれたのか良く分かりませんが、以後、卒業まで柔道部にどっぷり漬かる状態になりました。
 一方、学校のグランドも当時似たかよったかで、狭いスペースに野球、サッカー、ラグビー部がひしめき合って練習していたと記憶しています。
 その様な環境の中でも私が在学中、野球は甲子園へ行くし、サッカー、バスケットは全国制覇までやってのけた訳だから、本当に強くなろうと思えば結局、施設や環境以前に何かが有る。と考えさせられます。
 主役は人間であり、当時の先生達と生徒が同じ目的に向かって燃えた時代じゃなかったでしょうか。
 それに勉強する者も大勢いました。国公立の大学へ現役ながら毎年何十人の単位で合格していた時で、体育会系の者も推薦入学で全国の有名私大に大勢進みました。スポーツも勉強も良かった。
 いま振り返ったら、一種、山城高校文化が真赤に花咲いていた時代でないだろうか。自由闊達、自分が進みたいなら何でもやれ。但し、自分で責任を持ってな。
 私も柔道で山城最初の国体選手に選ばれた訳だが、私一人の力でもなんでもない。劣悪な環境の中で諸先輩が築いてきた文化が、私の時代に結実しただけ。そんなとこ。
 卒業後、私は推薦により東レに進み、実業団柔道選手として、3年連続全国制覇を果たしました。後にリタイヤし、企業を起こし現在に至っておりますが、全ての原点はあの頃、山城高校に有ると思っております。
           平成21年1月吉日    
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              山城高校第12回卒業
                   西堀孝三郎
             
 
 

     


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